中学受験 歴史 鎌倉時代の重点ポイントまとめ

中学受験 歴史 鎌倉時代

武士による武士のための政治が始まったのが「鎌倉時代」です。

あまりに有名な平氏と源氏の争い、とくに壇ノ浦での戦いや源義経の活躍はマンガやアニメにもなっており、中学受験生にとっても比較的学習意欲が高い単元といえます。

鎌倉幕府開始説には諸説あります。昔は、頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられた1192年が鎌倉幕府成立ということで、「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」のゴロ合わせが有名でした。

しかし現在は、「1185(いいハコ)つくろう鎌倉幕府」のゴロ合わせが定番になっており、1185年に源頼朝が朝廷に日本全国への守護・地頭の設置を認めさせたことから、実質的な支配が頼朝に移ったと考えられるため、現在は多くの教科書でも、1185年に鎌倉幕府開始したという記載が多くなっています。

さらには鎌倉幕府の成立については導入が済んでいる場合も多く、総じて学習しやすい単元として鎌倉時代はとらえられています。

ですが一方で、政治以外に農業や商業といった産業の発展、新しく信仰された仏教の数々、貴族中心ではなく武士中心の文化など、実に多様な視点から時代を切り取る必要があることも忘れてはいけません。

この記事では、中学受験の歴史「鎌倉時代」の重点ポイントについてまとめているので、これから受験勉強を開始する中学受験生は正しく知識を覚えて、鎌倉時代の内容を入試の得点源にできるように努めてください。

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一つ前の単元である「平安時代」についておさらいしたい人はこちらの記事を参考にしてください。

鎌倉時代の重点ポイントをまとめると…

鎌倉時代の重要ポイント

  1. 源頼朝と鎌倉幕府
    ・壇ノ浦の戦い
    ・源頼朝が征夷大将軍
    ・源頼政、義仲、義経
    ・守護地頭、御恩と奉公
    ・侍所、政所、問注所
  2. 北条氏と執権政治
    ・北条政子、時政、義時
    ・後鳥羽上皇と承久の乱
    ・六波羅探題と御成敗式目
    ・元寇と徳政令
  3. 鎌倉時代の社会
    ・武家造と封建社会
    ・二毛作と定期市
    ・運慶快慶と東大寺南大門
    ・新古今和歌集、平家物語
    ・徒然草、方丈記
    ・新しい仏教
目次

鎌倉時代の成立と源平の戦い

源頼朝と平清盛

鎌倉時代はいつからいつまで

鎌倉時代は、西暦1192年~1333年の約140年間続きました。先の平安時代が約400年間続いたことと比較すると、1世紀半という比較的短い時代区分だといえます。

その始まりは、源頼朝(みなもとのよりとも)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって鎌倉幕府を開いたところから始まります。これまでの貴族中心とした文化から、日本史上はじめて武士が中心となる時代の幕開けとなります。

そして、鎌倉時代の終わりは北条氏がほろぼされて鎌倉幕府が滅亡したときを指します。鎌倉時代は戦争の勝者によって始まり、同じように戦争や武士の勢力に左右されて終わりを迎えるのです。

このように、これからの時代はいずれも戦争や武士が関わってきます。以前の時代が天皇や貴族を中心としていましたが、これからはまさに「実力主義」の時代が始まっていくことを覚えておいてください。

平氏と源氏の戦い「壇ノ浦の戦い」

平安時代末期では、政治の中心を平氏一族が独占していました。1167年に平清盛が武士ではじめて太政大臣になったことをおさらいしましょう。

平清盛はかつての藤原氏一族をまねて、娘を天皇のきさきにしたり孫を天皇にしたりと、政治の重要な役職を独占していたのです。そのような状況に対して、院政を続けていた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)や貴族・寺社などが平氏に対しての反感を強めていきます。

そして、反対勢力を武力で弾圧しようとする平清盛に対して、中央の有力者だけでなく地方の武士たちも平氏政権にますます嫌気がさしていき、とうとう源氏が平氏を討伐するために挙兵します。

1180年、源頼政(みなもとのよりまさ)が後白河上皇の息子であった以仁王(もちひとおう)を反対勢力のリーダーとして、平氏討伐をしようとします。

この挙兵は残念ながら失敗に終わりましたが、これをきっかけにして全国各地の源氏が次々と平氏討伐の兵を挙げます。

そして、同年にこの後の鎌倉幕府のトップとなる源頼朝(みなもとのよりとも)がやはり以仁王の命令と北条時政(ほうじょうときまさ)の支援を受けて、現在の静岡県の伊豆で立ち上がります。

源頼朝だけでなく、現在の長野県の木曽で兵をおこした源義仲(みなもとのよしなか)の手により、1183年平氏は都のあった京都を追われることとなります。これが世に言う「平氏の都落ち」というものです。ちなみに、源義仲は源頼朝といとこの間柄でした。

命からがら都を捨てて逃げてきた平氏は、源頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)に追われて、とうとう現在の山口県にある壇ノ浦(だんのうら)で打ち取られることとなります。これが、1185年の壇ノ浦の戦いです。

ちなみに源頼朝はどんな人物であったかというと、源義朝の3男で、かつて平治の乱でその父とともに平氏に敗れて伊豆での厳しい生活を送ります。性格は厳しく細かいところまでよく気を配る人でもありました。その後、兵を挙げて、とうとう平氏への雪辱を果たすのです。

平清盛と源頼朝について短い動画で分かりやすくまとめているので、こちらもチェックしてみてください。

源頼朝と鎌倉幕府

1185年の壇ノ浦の戦いに勝利した源頼朝は、手始めに自分と主従関係を結んでいた御家人(ごけにん)という家来を各地方の守護(しゅご)地頭(じとう)に任命します。

頼朝のような将軍と御家人の主従関係というのは、将軍が御家人の領地を認めたり、手柄に応じて新たに領地を与えたりする「御恩(ごおん)」と、戦いが起きたときには将軍のもとに駆け付けて戦力になったり、普段は鎌倉の警護をしたりする「奉公(ほうこう)」のことを言います。

守護というのは、地方の国ごとにつく役人のようなもので、警察や司法、裁判の仕事をして武士の治安を維持する役割があります。頼朝の命令にしたがって、国内の武士たちの軍事指揮や統率を行います。

地頭というのは荘園や公領を管理する御家人のことで、荘園内での警察や土地の管理、年貢の回収などの役割を持っていました。これまで貴族や寺社たちが所有する荘園からは税が取れていませんでしたが、鎌倉幕府では地頭を置くことで確実に税をとる仕組みをつくったのです。

1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、将軍として政治を行う場所を鎌倉に定めます。
なお、頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由は次の3つが考えられています。

  1. 関東は源氏勢力が強かったから
  2. 貴族中心の京都は避けたから
  3. 鎌倉は海と山に囲まれ攻めにくいから

平氏が貴族化しようとして失敗したので、源頼朝は武士のための独自の政治を行うようになります。この武士中心の政治というのはそのまま江戸時代まで続くこととなります。

頼朝がはじめた武士中心の政治はかつての律令制度とは違い、シンプルで分かりやすいものでした。まず、中央の鎌倉幕府には次の3つの役所をつくります。

  1. 侍所(さむらいどころ)
    軍事・警察。全国の御家人を管理する。
  2. 政所(まんどころ)
    政治・財政。初めは公文所という名前であった。
  3. 問注所(もんちゅうじょ)
    裁判。武士の土地についての訴えが多い。

とくに問注所は御家人たちにとって財産でもある土地についての訴えを裁く役割があり、この存在が頼朝と御家人たちの信頼関係を築くうえでも重要でした。

そのほかにも将軍の下の役職である執権(しっけん)や京都を監視する六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所も後に作られることも覚えておきましょう。

このように、頼朝がつくった鎌倉幕府はこれまでの政治にはない新しいしくみを持っていましたが、一方で幕府から遠い地方ではいまだ国司が置かれていたり、朝廷や貴族の勢力が残っていたりして、幕府と朝廷の二重支配が続いていたことも押さえておきましょう。

源氏の滅亡と北条氏一族の鎌倉幕府

北条氏と元寇

1199年に源頼朝が死ぬと、その子どもである頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)が次の将軍となりますが、頼朝の妻であった北条政子(ほうじょうまさこ)とその父である時政(ときまさ)、政子の弟である義時(よしとき)が政治の実権を握っていきます。

2代将軍である頼家は時政と義時に殺され、3代将軍の実朝も義時にそそのかされた公暁(くぎょう)に殺されたとされています。なんと、源氏一族は頼朝の死後、わずか3代で北条氏一族によってほろぼされることとなるのです。

このときの北条時政は将軍の下の役職である執権であり、源氏をほろぼした後は京都の天皇や貴族の子どもを名ばかりの将軍位につけ、実質は自分が裏で政治を動かしていました。このことを執権政治というので中学受験生はしっかり覚えておきましょう。

後鳥羽上皇と承久の乱

1221年、京都の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は幕府を打つ計画を起こします。これが承久の乱(じょうきゅうのらん)です。読み方は「しょうきゅう」ではないので注意しましょう。

承久の乱は幕府の御家人たちに鎮圧され失敗に終わり、後鳥羽上皇は隠岐の島に島流し、上皇に味方した武士たちも領地を取り上げられてしまいました。これにより、幕府から距離のあった西日本で続いていた幕府と朝廷による二重支配が終わり、いっそう幕府の力が強まることとなりました。

そして、この乱以降に京都の朝廷を監視するために設置したのが六波羅探題です。この役職は執権に次いで重要な役職でもあったことから、北条一族が長らくその任務につきました。

鎌倉幕府で必ず覚えておかなければならないのが、1232年に執権の北条泰時(やすとき)によって制定された御成敗式目(ごせいばいしきもく)です。最初につくられた武士の法律であり、武士でもわかりやすいように簡単な言葉でまとめられているのが特徴です。全部で51条あります。

また、泰時は新たに評定衆(ひょうじょうしゅう)という裁判や政治のまとめ役を設置します。14人程度の人たちによる合議政治を行いました。

その後、北条時頼(ときより)のときに評定衆を補佐する引付衆(ひきつけしゅう)を置いて、政治のしくみをいっそう整えていきました。

元寇と鎌倉幕府のおとろえ

北条氏一族による執権政治によって、一時は安定を見せていた鎌倉幕府でしたが、同じころに大陸で異変が起こります。中国の宋とは別にフビライ=ハンが率いたモンゴル帝国が大帝国を築き、元(げん)として日本に服従するよう使者を送ってくるのです。

8代目の執権であった北条時宗(ときむね)はこれを断ると、元がいよいよ日本に攻め入ることとなります。これが「元寇(げんこう)」とよばれるもので、計2回元の侵攻があったことを覚えておきましょう。

まずは一回目が1274年、文永の役(ぶんえいのえき)と呼ばれ、元の軍隊約3万人が北九州の博多湾に船で攻めてきました。元は火薬集団戦法で日本を苦しめますが、11月下旬の季節風である暴風が起こり、元は結局大陸へと退いていきます。

その7年後の1281年、弘安の役(こうあんのえき)と呼ばれるのが2回目の元寇です。今度は元の軍隊約14万人という大軍がふたたび北九州に攻めてきます。幕府は御家人だけでなく、朝廷や寺社などにも協力をあおぎ、8月下旬の台風の暴風にもよって、元軍を退けることに成功しました。

2度にわたる暴風が日本を守ったことで、その暴風を神風とする神国思想というのも生まれましたし、外国からの侵略に対して貴族や武士、朝廷が一丸となって戦ったことで、はじめて日本という国家意識を人々が持つようになったともいわれています。

このように、当時大陸で一大勢力を築いていたモンゴル帝国からの侵略を阻止した鎌倉幕府でしたが、その備えなどで出費がかさみ、幕府の財政は一気に悪化します。

また、国家のために死力を尽くしてたたかった御家人たちに対して、幕府は十分なほうびを与えず、御家人たちの幕府への不信が高まります。そして、元寇で生活が苦しくなった御家人たちは土地を売って、ますます幕府へ不満を持つようになっていきます。

そのような状況に、幕府は徳政令(とくせいれい)という最終手段にでます。これはなにかというと、御家人が失ってしまった土地をタダで取り戻すことができるというものです。御家人を救うための発令でしたが、当然経済は混乱し、いっそう御家人たちの幕府への信頼が失われてしまいました。

そして、1333年に北条氏はたおされ、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

鎌倉時代の文化や人々の生活・暮らし

鎌倉時代の人々の暮らしと生活

鎌倉時代は幕府と御家人が領地をもとに「御恩と奉公」という主従関係で結ばれていましたが、これは御家人とその従者である家の子や郎党(家来)も同じでした。このような主従関係で結ばれた社会を封建社会(ほうけんしゃかい)といいます。

武士の場合、親に一族の権力が集中するようになっており、親は領地を守ることを重視して次の一族の長にも領地を代々引き継がせます。この時代はなによりも領地が大事だったのです。

武士の子どもたちも領地を守るために幼いころから、笠懸(かさがけ)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)といった弓矢と馬術を組み合わせた武芸にはげみます。

また、武士の家は武家造(ぶけづくり)といわれた板ぶきの簡素なものでした。家のまわりには侵入を防ぐような堀や土塁を設けていたのが特徴です。平安時代の貴族の家である寝殿造(しんでんづくり)とはまったく違うということをその理由と一緒に覚えておきましょう。

鎌倉時代の産業(農業・商業)

鎌倉時代は農業も発展します。鉄製の農具が農民の間に広がり、肥料も灰を利用して良いものができ、牛や馬を使って耕す方法もあみだされます。

また、近畿地方から西では稲と麦の二毛作(にもうさく)も行われました。

多くの農作物がとれるようになったことで、農村では月に3回の定期市(ていきいち)がたつようになります。この取引では中国の宋の銅貨である宋銭(そうせん)が使われていたことも重要です。

そのほかにも借上(かしあげ)というお金貸や問丸(といまる)という年貢の輸送を仕事とする人々もでき、鎌倉時代の経済が形づくられていきます。

鎌倉時代の文化・芸術・仏教

武士が社会の中心となったことで、文化面でも武士の力強い気風が影響を及ぼすようになっていきます。

奈良には東大寺南大門が建築され、運慶(うんけい)・快慶(かいけい)らの金剛力士像はとくに有名です。鎌倉に建てられた円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりてん)も覚えておきましょう。

学問においては、次のようなものが生まれました。

  • 金沢文庫…北条実時
  • 新古今和歌集…藤原定家
  • 金槐和歌集…源実朝
  • 平家物語…琵琶法師
  • 方丈記…鴨長明
  • 徒然草…吉田兼好

いずれも中学受験でも重要なので、作者とセットで覚えておきましょう。

新しい仏教もよく入試で問われるので、仏教の名前とそれを開いた人の名前とセットで必ず覚えておいてください。

  • 浄土宗…法然
  • 浄土真宗(一向宗)…親鸞
  • 時宗…一遍
  • 日蓮宗(法華宗)…日蓮
  • 臨済宗…栄西
  • 曹洞宗…道元
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鎌倉時代のまとめ

それでは最後に鎌倉時代の単元の重点ポイントのまとめをしていきます。

鎌倉時代のまとめとして、次の3つの項目をなにも見ずとも出来事やその年号、関わりのある人物を言えるかどうか確認してみてください。

  1. 源頼朝と鎌倉幕府
  2. 北条氏と執権政治
  3. 鎌倉時代の社会

鎌倉時代のまとめ

  1. 源頼朝と鎌倉幕府
    ・壇ノ浦の戦い
    ・源頼朝が征夷大将軍
    ・源頼政、義仲、義経
    ・守護地頭、御恩と奉公
    ・侍所、政所、問注所
  2. 北条氏と執権政治
    ・北条政子、時政、義時
    ・後鳥羽上皇と承久の乱
    ・六波羅探題と御成敗式目
    ・元寇と徳政令
  3. 鎌倉時代の社会
    ・武家造と封建社会
    ・二毛作と定期市
    ・運慶快慶と東大寺南大門
    ・新古今和歌集、平家物語
    ・徒然草、方丈記
    ・新しい仏教

中学受験の歴史「鎌倉時代」の次の単元は「室町時代」です。

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