中学受験 歴史 江戸時代 【前期】の重点ポイントまとめ

中学受験 歴史 江戸時代前期

二百年以上もの長い間大きな戦もなく、平和な時代が続いたのが「江戸時代」です。

激動の戦国時代を経て、織田信長から豊臣秀吉、豊臣秀吉から徳川家康へと日本の治世は移り変わり、世界でも類をみない平和な時代が日本にやってきます。

そこには決して偶然ではない、江戸幕府によって緻密に計算された制度や大名の配置転換など、さまざまな政策がありましたが、

一方で中学受験生にとっては、これまでの時代区分と比べると目立った戦乱もなく、将軍とあわせて細かい政策の数々を覚える必要があり、中学受験の歴史においては非常に学習難度の高い単元ともいえるでしょう。

そこで中学受験生にとっても学習しやすいように、江戸時代を前期(約1600~1650年)、中期(約1650~1750年)、後期(約1750~1867年)の3つの区分に分けて整理しました。

この記事では、中学受験の歴史「江戸時代 前期」の重点ポイントについてまとめているので、覚えにくい江戸時代を得意な時代区分にできるよう、まずはその時代背景からしっかり学習していきましょう。

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一つ前の単元である「安土桃山時代」についておさらいしたい人はこちらの記事を参考にしてください。

江戸時代【前期】の重点ポイントをまとめると…

江戸時代【前期】の重要ポイント

  1. 江戸時代の始まりと終わり
    ・1603年江戸幕府の開始
    ・1867年大政奉還で江戸幕府の滅亡
  2. 徳川家康の政策
    ・大御所と2代将軍徳川秀忠
    ・1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣
    ・老中、大老、京都所司代
    ・親藩、譜代、外様大名
  3. 徳川家光の政策
    ・参勤交代
    ・武家諸法度、禁中並公家諸法度
    ・寛永の鎖国令で鎖国の完成
  4. 鎖国とキリスト教
    ・1639年鎖国の完成
    ・中国とオランダのみ貿易
    ・天草四郎の島原の乱
    ・絵踏と宗門人別改帳
目次

江戸時代の年代

江戸時代の成立年代

江戸時代の成立はいつからいつまで

まず、江戸時代はいつから始まったかですが、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)に勝利した徳川家康が1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いたところから始まります。

その後、徳川家将軍による治世が開始され、約260年間もの長きにわたって江戸幕府は続いていきますが、1867年15代将軍であった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)のときに、政権を朝廷に返上する大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、江戸幕府はほろびました。

これにより、1185年の源頼朝の時代から約700年間にもわたって続いていた封建政治が終わることとなります。

江戸時代【前期】の区分

それでは、この記事でまとめている江戸時代前期がいつからいつまでのことを指すのかを示しておきます。

ここでは、徳川家康が実権を握るきっかけとなった1600年の関ヶ原の戦いから、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)までの時代(1650年くらいまで)を指しています。

この徳川家康から徳川家光までの時代は、武力を背景にして諸大名たちを押さえることができていた武断政治(ぶだんせいじ)といわれ、江戸幕府の基礎を確立した時代であることを押さえておきましょう。

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江戸幕府の政治

関ヶ原の戦いと徳川家康

徳川家康とは

まず初めに、中学受験生にとっての徳川家康のイメージは、戦乱の世で活躍して最期の最期で天下統一を成し遂げられなかった織田信長や農家の子から成し上がって天下統一を成し遂げた豊臣秀吉らと比べると、苦労もせずにいいとこ取りをした大名のように思われているかもしれません。

ですが実は、この戦国三英傑のなかでも幼少期から苦労を重ね、戦乱の世の中を辛抱強く息抜いてようやくその実が結んだ人物こそが徳川家康なのです。

織田信長の時代から数々の戦場を駆け回り、ときには織田信長の命令によって大事な家継である長男徳川信康(とくがわのぶやす)を殺さなければならないこともあり、織田信長から豊臣秀吉と日本の実権が移った後も自らの領地でじっと力を蓄え、やっとこの時代になってその力を発揮することとなるのです。

関ヶ原の戦い

もともとは三河(愛知県)の戦国大名であった徳川家康は、1590年に北条氏が滅亡した後に江戸へと移り住み、そこで約250万石もの大名として実力をつけていきます。

なお、この「~万石」というのは石高(こくだか)を表し、一石は大人一人が一年間に食べるお米の量に相当しています。そのため、石高が多い大名ほど土地や人を多く所有していることになり、その数が大名の財力、さらには兵力までを表しているのです。

豊臣秀吉の死後、その息子であった豊臣秀頼(とよとみひでより)がまだ幼かったことから、秀吉が信頼し任命した五大老(ごたいろう)五奉行(ごぶぎょう)の話し合いによって政治が行われることとなります。

  • 五大老 …徳川家康(250万石) ・前田利家(80万石) ・宇喜多秀家(55万石) ・毛利輝元(120万石) ・上杉景勝(120万石)
  • 五奉行 …石田三成(20万石) ・浅野長政(20万石) ・前田玄以(5万石) ・長束正家(5万石) ・増田長盛(20万石)

五大老は各地の有力大名たちであったのに対し、五奉行は豊臣家に仕えていた家臣たちです。そのため大名と比べると石高で圧倒的な差があり、なかでも徳川家康は他の大名と比べてもはるかに実力があったことが見て取れます。

そんな徳川家康に対して、豊臣家を守ろうと対立したのが五奉行の石田三成(いしだみつなり)でした。

石田三成の西軍と徳川家康の東軍に日本全国の大名たちが分かれ、天下分け目の戦いとして関ヶ原(現在の岐阜県)で両軍がぶつかりました。1600年、関ヶ原の戦いです。

戦開始前から勢力差でも東軍が圧倒的有利だっただけでなく、西軍の島津義弘(しまづよしひろ)の領地帰還、毛利輝元(もうりてるもと)の不参加、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りなどが重なり、東軍が西軍を破って徳川家康が天下を握ることとなりました。

江戸幕府のしくみ

1603年に征夷大将軍に任命された徳川家康は、その2年後に将軍職を子どもの徳川秀忠(とくがわひでただ)にゆずって自身は大御所(おおごしょ)になりました。これにより、徳川家が代々将軍職を継いでいくことを示すかたちとなりました。

また、徳川家康は徳川家による江戸幕府を強固なものにしようと、豊臣家の家臣たちが集う大阪城を2度にわたって攻め(1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣)、1615年にとうとう豊臣家をほろぼしたのです。

江戸幕府のしくみは、3代将軍であった徳川家光のときに整備され、各地の大名たちに対する支配を確立していきました。

中央政治としては、将軍を補佐する老中(ろうじゅう)を置き、非常時には大老(たいろう)という役職を設けました。また、大名を監視する大目付(おおめつけ)や町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三奉行が置かれました。

地方政治としては、朝廷や西に位置する大名たちを監視する京都所司代(きょうとしょしだい)を置き、要地要所には城代や奉行などを置きました。

徳川将軍に直接従う家臣団として、将軍にお見えできる旗本(はたもと)とお見えできない御家人(ごけにん)による家臣がいて、この家臣団の領地を加えると幕府は当時の日本全国の石高の約4分の1にもなる領地を支配していたといわれています。

江戸幕府の政策

幕府は大名を親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)の3つに分けて管理しました。

親藩は徳川氏一門の大名であり、徳川家康の子どもによって分家した尾張(おわり)・紀伊(きい)・水戸(みと)のことをいいます。御三家(ごさんけ)と呼ばれました。

譜代は初めから徳川家につき従っていた大名なのに対し、外様は関ヶ原の戦い以降に徳川家に従った大名であり、親藩・譜代は関東や近畿の要地に配置され、外様は九州や四国などに配置されました。

これは信頼の厚い大名たちで要所を管理させ、それ以外の場所に外様大名を配置することで互いを監視させて均衡を保とうとするねらいがありました。

1615年には、武家を取り締まるために武家諸法度(ぶけしょはっと)を定め、背いた大名や武士には家の取りつぶしなどの罰則を与えました。

また、とくに有名な政策が参勤交代(さんきんこうたい)とよばれる、大名が1年おきに江戸と領地を住み替えるというもので、3代将軍の徳川家光のときに制定されました。

これにより、大名たちは江戸と自分の領地を往復するのに多大な費用をかける必要があり、幕府は大名の経済力をなくすことによって反乱を防ごうとしました。

一方で朝廷に対しては禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定し、京都所司代を置いて常に監視するなど、反乱が起きないように細心の注意も払っていました。

鎖国と外交政策

鎖国と江戸時代の外交政策

江戸幕府の外交と朱印船貿易

1600年、豊後(大分県)にオランダ船が漂着し、乗船していたイギリス人航海長のウィリアム=アダムズ(日本名:三浦按針)とオランダ人航海士のヤン=ヨーステンを徳川家康は江戸に呼び寄せ、その後幕府の外交の相談役として重用しました。

相談役がいたこともあり、徳川家康はオランダとイギリスとの貿易を奨励し、平戸(長崎県)に貿易のための商館をつくります。これにより、江戸幕府はオランダとイギリスとの貿易を開始することになりますが、1623年にイギリスはオランダとの貿易競争にやぶれて商館を閉鎖し、日本から退去しました。

その他の海外の国々との交流としては、仙台の大名伊達政宗(だてまさむね)が家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペイン国王とローマ法王のもとに派遣しますが、貿易を開始することはできませんでした。

また、ポルトガルはかねてより日本の銀と中国の生糸(きいと)を交換することでばく大な利益を上げていましたが、1604年に江戸幕府が糸割符制度(いとわっぷせいど)とよばれる生糸の輸入を統制する貿易統制を行ったことで、大きな損害を受けました。

かつては豊臣秀吉が始め、幕府が発行した朱印状(しゅいんじょう)という海外渡航許可証をもった貿易船による東南アジアとの貿易が朱印船貿易であり、徳川家康のときに全盛期を迎えました。

海外からの主な輸入品は生糸・絹織物・香料で、海外への主な輸出品は・銅・硫黄(いおう)・陶器(とうき)・蒔絵(まきえ)です。

朱印船貿易は中学受験でも頻出のキーワードなので、豊臣秀吉がはじめて全盛期は徳川家康の頃だったこと、その貿易品をセットで必ず覚えておきましょう。

この朱印船貿易がさかんになったことで、当時の東南アジア各地に日本人が住む日本町ができ、多い町では約2000~3000人もの日本人が住んでいました。さらに、山田長政(やまだながまさ)という日本人のようにシャム(現在のタイ)で最高の位として重用されることもありました。

江戸幕府によるキリスト教禁止

江戸幕府ははじめはキリスト教を許していましたが、1612年に幕府の領地である天領(てんりょう)キリスト教禁止令を発令し、次の年には全国に禁止令を広めました。

キリスト教を禁止した理由として、キリスト教は平等や命の尊さを説いていたため封建社会には合わなかったこと、また貿易による利益によって西国の大名たちが勢力を強めることを阻止するねらいがありました。

かの豊臣秀吉も当初はキリスト教を認めていましたが、やはり同じような理由でキリスト教禁教令を出しています。それだけ、いつの時代もキリスト教の影響力が大きかったことを示しています。

1637年には、領主によるキリスト教の厳しい弾圧があり、それに対してキリスト教信者たちが天草四郎(あまくさしろう)をリーダーとして反乱を起こしました。これが島原の乱(しまばらのらん)と呼ばれるもので、九州の島原・天草地方で起こり、最終的には幕府の力によってしずめられました。

以後、キリスト教徒を取り締まるために、江戸幕府は絵踏(えふみ)とよばれるキリストやマリアの画像をはめた板を踏めるかどうかでキリスト教信者を見分けていました。ちなみに、大人にとってなじみが深いのは踏絵(ふみえ)ですが、中学受験では絵踏で覚えましょう。

また、人々を必ずどこかのお寺に所属させ、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)に記録することで、キリスト教徒ではないことを証明させる寺請制度を行いました。ところが、表上は仏教徒としながらも、実はキリスト教を信仰していたかくれキリシタンがいたこともわかっています。

鎖国

1639年、3代将軍徳川家光はそれまで貿易を認めていたポルトガル船の来航を禁止し、中国とオランダのみを許可しました。これによって鎖国(さこく)が完成したため、これを寛永の鎖国令(かんえいのさこくれい)と覚えておきましょう。

なお、1639年当時の中国は明(みん)の時代でしたが、その5年後にほろんで清(しん)が統一したことから、鎖国中に貿易を許されていたのは清であることに注意しましょう。

さらに、1641年には長崎の平戸にあったオランダ商館を長崎の出島(でじま)に移動させ、貿易をする唯一の港は長崎だけになり、鎖国がより一層強まりました。出島は面積が約14,000㎡で、今なお当時の影響が色濃く街並みや文化に残っています。

このような徹底した鎖国政策が行われたことで、日本は海外との交流が絶たれることとなり、幕府の力は強まる一方で海外の技術や文化の発展からは取り残されることとなりました。

ただ結果的に日本独自の元禄文化や化政文化、独自の産業が発達していくこととなります。これらについては、次の「江戸時代 中期」で詳しくまとめていきます。

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江戸時代【前期】のまとめ

それでは最後に江戸時代【前期】の単元の重点ポイントのまとめをしていきます。

江戸時代【前期】のまとめとして、次の4つの項目をなにも見ずとも出来事やその年号、関わりのある人物などを言えるかどうか確認してみてください。

江戸時代【前期】のポイント

  • 江戸時代の始まりと終わり
  • 徳川家康の政策
  • 徳川家光の政策
  • 鎖国とキリスト教

答えられない場合は、もう一度それぞれの見出しに戻って読み返して要点を押さえましょう。中学受験の重要ポイントは次のようになります

  1. 江戸時代の始まりと終わり
    ・1603年江戸幕府の開始
    ・1867年大政奉還で江戸幕府の滅亡
  2. 徳川家康の政策
    ・大御所と2代将軍徳川秀忠
    ・1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣
    ・老中、大老、京都所司代
    ・親藩、譜代、外様大名
  3. 徳川家光の政策
    ・参勤交代
    ・武家諸法度、禁中並公家諸法度
    ・寛永の鎖国令で鎖国の完成
  4. 鎖国とキリスト教
    ・1639年鎖国の完成
    ・中国とオランダのみ貿易
    ・天草四郎の島原の乱
    ・絵踏と宗門人別改帳

中学受験の歴史「江戸時代【前期】」の次の単元は「江戸時代【中期】」です。

目次